私の一番苦手な話題が「経済」苦手というより、十代のころからずっとどういう訳か「お金」という話題には、アレルギーのような嫌悪感があった.

Noro153+EN2011-08-04


不思議なことに、この歳までそれで生きてこられたのも偶然というより、欧州大陸は日本や米国式の究極の資本消費主義には至っていなかったのかもしれない.そういう世界で大人時代の大部分を過ごした後、1999年(母の面影を追い求め)から2010年まで横浜で生活した.「浦島太郎状態」で横浜に戻り、母が長いことやっていた小さな飲み屋を継いだ.母を失った悲しみで、それまでの全ての人生を捨てても、母が居た場所にいたい、母が呼吸していた空気に触れていたいという、多分異常な精神状態でベルギーから横浜へ移住した.

元々生まれ育った場所なので、変化の全てを受け入れ、一生横浜に住むつもりだった.しかし、徐々に自分のお店の外が見えるようになり、しかも欧州とは全く別の何かがおかしいということに気付き始めた.

例えば、私が育った時代、50〜60年代の横浜はまだ「お金のために」何かをやることは、卑しいことだ、という感覚があった(ベルギーでは今でもそれが続いている).だから、お金がすべてという米国を嘲り笑う大人たちが私の周りには沢山居た.ところが何十年かで、日本がそういう米国と同じになってしまったことに気付いた.偉い人たちとは、かっこいいこととは、お金を稼ぐことが上手な人たち・・・・テレビや新聞などのマスコミも全国民をそのように洗脳し・・・世界で何が起こっているかは一切知らせない.国民すべてを「日本国の経済成長」に加担する方向への操作していることが、私には明快に解るようになった.いくら良いことを言っても裏には、一人ひとりは歯車の歯の一つで、それ以外のものではない、という社会であることに気付いた.要するに、横浜や日本政府が、何かあった時に(私や)国民を守ることは何一つしない、という事実にふと気付き、焦って日本を脱出したのが、一年前.結局11年間、横浜で飲食店を経営し、毎日様々な人々と交流できたことは、私にとってひとつの大きな財産になった.

ベルギーに戻り、もちろん昔の生活とは違い(離婚し、長男を亡くし・・)たった独りでの生活だ.そうするとそれまでひとに頼って生活していたのとは、全く違った社会の姿も見えるようになった.日本に居た時と一番違うことは、この社会が信用できるものであり、何かあったときには絶対に政府が助けてくれるという安心感だ.経済という歯車の歯の一つではなく、ちゃんと人として守ってくれる社会がある.

欧州が米国の影響を受けないのではなくて、欧州としてのアイデンティティを守るべく「抵抗」してきたという方が正しいが、それも米国の強かな金融資本主義に圧倒されつつある.これは、スウェーデンのゴーテブルグへ行ってつくづく感じた・・・

「お金が嫌い」と言っても、お金がないと食糧も買えないし生活できないのは充分承知している.では、何が違うかを説明しよう.

私がいた横浜の野毛という古く(と言っても戦後)から続く飲食街を見ると説明しやすい.生活するための飲食店経営と利益追求のための飲食店.この二つの中間に位置する飲食店があるかもしれない.最初の飲食店は職人の枠に入り、店の持ち主(又は借り主)がお店の全てを仕切り、お店に立つ.寿司屋なら出すものに絶対的に自信を持っているご主人は、赤字にならないで、生活ができれば良いと考えている職人だ.同じように、バーでも立ち飲み屋でもそれぞれがその道の「職人」なので、客にこびを売るようなことはしないが、客たちとの交流を楽しむことができる.要するに、競争する感覚は持っていないご主人達なので、何百の飲食店が集まっていても「敵はいない」ことになる.これが、母がいた時代のすべての野毛の飲食店の有り様だった.私がいた時代には、こういう職人のご主人達の飲食店が、次々になくなっていくのを目の当たりにした.歳をとって止めると跡継ぎがいないので閉店、または子供が継いで「資本家」の真似事をして失敗、閉店・・・

最大の利益を上げることが目的の資本家が経営する飲食店は、すべてにおいて利益が優先する.店長をおき、経営者は利益のアップダウンの責任をすべて店長に委ねる.利益が最優先するので、どうやって経費削減するか、最小限の投資や出費で最大限の利益を上げるかが問題になる.従業員には、客との交流はマニュアル式に統一した形でやってもらう(働き手はロボット).出すものは徹底的に均一化することで、客を納得させる.利益が上がることであるならば、どんなこともする.周りの「生業職人の店」を潰そうが、競争だから自分の勝ち.そして、次から次に新店舗を開店させ、お金と世間的名誉を勝ち取っていこうと考える.だから、客は単なる消費者でしかない.嫌なやつであろうが、お金を落とす消費ロボット、となってしまう.そして、周りの飲食店はすべて競争相手なので、周りを出し抜いて自分が利益を上げられれば「勝ち」になる.

この二つ目の(大小の差はあっても)資本家が、お金のために経営する飲食店は、限りない競争と限りない利益の追求が伴ってくる.それは、大会社や国の運営も同じように「際限のない上昇」という思想が根幹にあるような気がする.そして、見つからなければどんな悪いことをしても正当化される、何しろお金が増え利益が上がる訳だから.国で言えば、国民がより金持ちになるわけだから、どんな悪でも悪ではないと思い込むようになってしまう.

資本家は、利益追求のために広告会社と組んで、人々を洗脳し客を増やそうとする.広告会社はテレビや新聞、雑誌と組んで、自分の客のために最大の利益を上げようとする.テレビや新聞は、役人と組んで、利益だけを追求しようとする.そして、国民の幸せとか生活とか、又は資源や地球の有限性は全く関係ない.人々は他人よりお金があって、他人より多く(消費)モノが買えることが、一番の幸せであると思い込まされ、間違った誘導をされてしまった.間違ったというのは、多分今回の原発事故処理の有り様をみていると、より多くの人々が「お金で幸せは買えない」ことに気付いたのではないかと思う.

世界では、この世界中を牛耳る金融資本消費主義に意義を唱える人々が、急激に増えている.それはだれでもが「何かがおかしい」と思っている証拠だ.私が大好きなストリートアート、反体制の音楽、それにフェイスブックの2千人の世界の環境問題に関わる人々、そしてベルギーでの「お金とさよならしたい」知り合いや友人達などを通して、世界が急激に変わろうとしていることを感じる.