昔「私は無神論者です」というと「それでは善悪の判断はどうやってやるのか?」という質問を良く受けた.若かりし頃の話しなので、そういう人々とまともな議論ができたかどうかは忘れてしまったが、齢を重ねると次々に自分の曖昧な感覚をはっきりと他人に説明できるようになってきた.

社員食堂


若かりし頃はそういう質問をする宗教信者は、バカだと思っていた.人間としての常識や正義で善悪なんて判断できるじゃないの、と思っていた.しかし、その「常識や正義」というものが、世界各地、または社会の様々なグループで違うのだ、ということが解ってきた.様々な宗教、様々な信念の基に成り立った社会、それぞれの常識があり正義がある.

例えば、回教徒にとっては豚肉を口にするより死を選ぶ.だから回教徒に無理矢理豚肉を食べさせることは「拷問」になる.ヒンドゥ教徒には牛が聖獣なので、絶対に口にしない.儒教の影響を受けた社会または家族の中で育った人は、どんなに親が犯罪(社会や国の法律違反)行為をしていようとも、それを公表しない.・・・というようにそれぞれの宗教や信念の外側にいる人々にとっては「バカじゃないの」と思う事が、その中に入る人々にとっては真剣な正義で常識なのだ.

ある意味「宗教が無くてどうやって善悪の判断をするのか?」と質問する人も満更「バカ」という訳ではない、と最近では考えるようになった.ベルギーのように多文化共存を理念とする社会では、昔からどうやったら、宗教、言語、信条を超えた共通の約束や目標、目的が可能かが追求されてきた.「文化・カルチャー」というのは、一つの宗教を共有する社会、一つの言語を共有する社会、一つの信条を共有する社会の中で育まれる習慣や活動、そして価値観のことを言う.だから、多文化共存とはそれぞれ違う文化圏の人々が別の文化圏の人々の存在を認め尊重し、お互いに仲良く共存することを目的にしている.

因に私が仕事をしている場所、ベルギーにいる難民を援助し、ベルギー社会にとけ込ませるための組織の名前は正に「共存・コンビビアル・一緒に生きる」とそのままだ.100名近い有給職員の国籍は28カ国にのぼる.少し詳しく言うと似たような名前の3つの非営利団体が協同し、一つの建物の中で活動している.3つの非営利団体というのも最近知った事で今でも私自身がどの非営利団体に属しているかは良くわかっていないほど「一つの団体」になっている.管理する部署は一つでディレクターは一人、経費節約のために3つのグループが一緒になり、とても成功している.

(上の写真はコンビビアル職員の食堂で.ディレクターがテーブルに腰掛けみなにスピーチ)昼食はメニュー一つで選べない.しかし、どんな宗教や信条でも食べられ、だれもにも嫌な思いをさせないように「完全菜食」を徹底している.肉を食べないことは、宗教の違いもあるが、反資本主義の人々も肉を食べない、動物愛護の人々も完全菜食、地球環境問題を考えている人も肉食には反対だ.あるグループは大量生産された肉は食べない、あるグループはチーズや牛乳、牛はだめ・・・と、とてもややこしい.それで、私の組織では「完全菜食」という共通してOKな食事になったという.

ところで、日本にいた頃の知り合いが「外国へ行くとレストランなどで何を食べていいか分からないので、すでに食事をしている人たちが何を食べているかテーブルを回って見渡して、美味しそうなものを指差して注文する」と言っていた.これは(欧州では)実は非常に無作法な行為だ.何を食べるかという事自体がプライベートなことで、ある意味「下着は何を身につけている、週に何回身体を洗う」などに匹敵する.だから、だれかとテーブルを共にしても相手が何を食べているかは、干渉しない、お皿を覗き込まないことが、礼儀・マナーになる.(ましてや日本の風習、誰かが勝手に注文したり、何かを食べるよう勧めたり、レストラン自体が注文もされていないのに出したりは、違う文化の人々には嫌な思いをさせることにもなる)

さて、食べ物の他にあらゆる社会生活が同様に違うということを認めないと他人を認める事にはならない.要するにある一つの社会やグループ内での常識・当たり前は、別の社会やグループの中での非常識になりえることを意識し、認めなければいけない.

例えば、日本人間で常識として浸透している「日本人は時間や約束を忠実に守るが、外国では時間にルーズだ」は世界共通の認識だろうか?私はそう思っていない.ネガティブな言い方をすると「日本人はそこにカネや世間体が絡むと時間や約束に忠実だが、そうでないと時間に正確ではないし、約束も守らない」.ベルギーでは(カネで幸福は買えないし、世間体という感覚がないので)日本とは反対に、家族や友人達との約束や時間は忠実に守るが、仕事としての時間や約束にはあまり忠実ではない.お店や役所や郵便局などの開店時間を数分、数十分遅れて開店してもだれも文句を言わない.先日も私のMacの調子が悪く、開店10時のアップルのお店に9時半から待っていたら、何と開けたのが10時半、30分遅れだ.二人の若い店員は謝りもしないし、同じように開店を待っていたおばさんは気にする事も無く時間の無駄をしないように、別のお店へ行って戻ってきたのが11時近く.その代わり、多くのベルギー人のプライベートでの時間の正確さや約束を忠実に守る姿勢には、非常に感心させられている.日本では沢山の知り合いや友人達の裏切り(約束を守らない)や時間を守らないことを経験した.私との約束を守らなくても世間体を傷つける事もないしカネも損しない・・・

ここで私が言いたい事は、〇〇人は何々、▲△人はこうだという事自体が偏見であり(上記私が書いたベルギー人についても)私自身常にそれを意識しないといけない、ことを自覚している.その社会の9割がそうでもそうでない人々もいる.あるメルマガに書き込まれた文章が心に残っている.「日本は技術的には中国より上だから・・・」と当たり前のように書き込まれていたが、そう思っているのは日本の社会だけではないだろうか?少なくともベルギーでは「日本は(何々の)技術はに中国より上」と考えることはあっても、国として・・という偏見はない.日本では「日本人は何々だけど、外国人は何々」という言い方を多く耳にするが、国やあるグループ単位でそこに属する人々を判断することは明らかな偏見だ.国がどうこうというのは、その国の政府の方針のことを言い、それは明らかな政策を指している.その国の政府の政策を批判してもその国に属する人々や個人を批判することは間違っている.

では、何を人類共通の聖典とするか?または共通の聖典なしに「多文化共存」は可能か?

上記のように、私のいる組織は同じ建物に3つの違う非営利団体が一つの目的「ベルギーにいる難民の生活をより良いものにする」ために日々活動をしている.それに協力してくれている何十もの他の組織や団体、政府、行政、様々な外国政府の存在も重要だ.例えば、素晴らしく設備の整った「パソコン教室」があって、連日生徒(難民)たちがパソコンの基本を勉強している.私の組織「コンビビアル」が主催しているが、講師の派遣と設備は全く別のパソコンの普及に徹した非営利団体が行っているという協同作業だ.講師に給料を払っているのはパソコン普及の非営利団体だが、講師はウチの組織に来たら100%ウチの組織のパソコン講師になり、その非営利団体は一切の口出しはしない.その非営利団体は、様々な別団体や行政から助成金や寄付を集め運営資金にしている.だから「無料のパソコン教室」をブリュッセル(又はベルギー全土)各所で運営することが出来る.フランス語の講座もいくつか種類がある.パソコン教室と同様に、別の非営利団体(外国からの文盲者に言葉を教える事に徹した団体など)が給料を出している講師たちが、ウチの組織でも講座を開いている.パソコン教室と同様、ウチの組織だけではなく、様々な場所で「無料のフランス語教室」を運営している.木工訓練部門も同様に別組織や行政の協力により、難民と失業者などすべての人々を対象にした職業訓練所だ.「食糧銀行」の部門もあり、毎日沢山の人々(難民)がスーパーにあるような食品を無料で貰う為に来ている.「世界食料銀行」と「欧州食料銀行」との協同作業だ.それにベルギーのほとんどの国内や周辺の国々の食料製造会社やスーパーなども協力して、過剰生産、売れ残り、消費期限の短いものなどを無料でウチの組織に届けてもらい、もちろん無料で必要とする人々に配付している.欧州食料銀行は欧州中に様々な団体を介して、困っている人々に無料で食料が届くような活動をしている.

もう一つの部署はアパートなどを見つける不動産部門がある.幸運な事に個人で億近くを寄付してくれた人がいて、近くに建物を買い取り、修復後現在は7家族が最高6ヶ月を限度に住める場所があるが、一般のアパートを見つけることがその部署の目的だ.そのためには、難民の支払い能力を保障(国がすべての難民に最低生活できる金額を毎月支払っている)し、最初に払い込む金額はウチの組織が貸し付ける.その不動産部門はやはり、幾つかの「弱者のためにアパートや住居を捜す、確保することに徹した別組織」からの協力がないと成り立たない.一般の低所得者用の住宅を供給している行政や非営利団体などとの連携がある.生活物資、衣服、家具などの部門は一番大きくて、ウチの組織の建物全体3700平米の4分の3と職員の数も一番多い.個々に持ち込まれたり、倒産会社からのもの、そして有名な赤十字組織始め沢山の「弱者や低所得者を助けるための組織」からの寄付がある.昨日は年に2回ある職員が買っていい日で、被服や靴1ユーロ、おもちゃなど0.5ユーロ、カーテン生地一巻き10ユーロで売っていた(難民へは完全無料).最後の片付けを手伝ったが、カーテンは生地屋が倒産し、寄付されたもの.1トン近い残った衣服は別の非営利団体へ渡す事になった.この非営利団体はベルギー中にお店を持ち、社会の弱者や一般の人々へ衣服や生活物資などを数十円で売り、売り上げを様々な団体へ寄付している.

私の部署は、文化と芸術を通して難民をベルギー社会にとけ込ませること、難民の実情や現実などを一般の国民に知らせる広報の役割を持っている.すべての人々に文化芸術を楽しんでもらうことを目的に活動する様々な別団体、欧州人権・難民委員会、国連難民高等弁務官、欧州難民基金などとの連携や協力がある.そして、有給職員百人とは言え、ウチの組織が給料を出し、直接雇っているのは3分の1、他は国や行政機関や別の非営利団体が給料を出している.

長々と私がいる組織「コンビビアル」のことを書いたが、たかが社会の一つの問題「難民」に何十もの様々な非営利団体や沢山の行政や国際組織などの協力がある.ということは、何かの共通の「聖典や基準」がないと成り立たない.例えば組織内の決り事が別組織の信念と食い違いがあれば、このような協力体制を作ることは不可能になる.ましてや義理人情や絆のような個人的感情が入ったら、団体として成り立つとは思えない.

日本の様々な組織や団体、グループなどを見ているとこの基本になる「聖典か基準」が曖昧か無いかで、協力体制が中々難しいのではないかと思っている.多種多様であることは、何か共通の約束ごとを見つけないと共存や共通の目的を持つことは出来ない.今日の日記を書く切っ掛けになったのは、経産省前の反原発グループやオキュパイグループ、動物愛護グループ、環境保護グループなどが全くお互いを無視し、協力体制は不可能と思われる発言を今まで目にしてきたからだ.私にはそれぞれの問題の根っこは共通していると思うが・・・日本という単一文化圏社会で問題を解決するのに人々の協力を得られない.ベルギーのように多種多様、大多数はいない少数派の集合体社会で「何かの問題を解決するために」沢山の組織や人々が協力してくれる・・・

私のいる組織「コンビビアル」の「聖典」は、世界のほとんどの国が採択した「世界人権宣言」だ.欧州憲法とベルギー憲法、ベルギーの国にあるのでベルギーの法律なども同様に守るべき約束事だ.聖典といってもだれも盲目的に信じている訳ではないが、現在考えられる段階では、世界人権宣言は共通の聖典としては最高のものだ.法律も同様にまずい個所があれば民主的方法で変えていけば良い.世界人権宣言を基に欧州憲法やベルギー憲法は作られている.そこには矛盾する事柄はまずない.

キリスト教、回教、ユダヤ教、仏教も無神論者も菜食主義者も環境問題を扱う人々も社会主義も資本主義者も共通して守らなければいけない「聖典」だ.ベルギーではパブリックの場では「宗教」を無くすことが大昔から考えられてきた.個人がある宗教を信じる事は良いが、宗教が社会を支配しないために、法律や憲法そして人権宣言がある.このような言語、宗教、信条、伝統を超えて決められた約束ごとを無視して、社会生活や目標を持つことは不可能だ.

(以前書いたかもしれないが)世界人権宣言の第27条だけを目的にした非営利団体の人たちと交流がある.その名も「第27条・Article 27」という団体で、芸術文化をベルギー中の弱者に浸透させる活動をする非営利団体で、(コンビビアルも含め)その関係の活動をする団体や行政へ「第27条」というチケットを配付し、受け取れる(難民を含めた)社会の弱者はほとんどの美術館、博物館、映画館、イベントなどへ1.25ユーロ、約130円で入場できる.それぞれのイベントや博物館などへは、この組織が差額を払っているが、国や地方行政の緊縮財政の影響を受け窮地にたたされているらしい・・・この団体のお陰で法律が改正され、国営、地方行政の管理や助成金を受けている芸術文化主催主は、社会の弱者(ホームレスを含めた全て)への特別料金設定や弱者を受け入れる体制作りが義務づけられている.

世界人権宣言
第27条
すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。     
すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。


先週の土曜日は珍しく同僚と私二人で出勤だった.ブリュッセルの「必要とする人々に付き添いをするグループ」の人々30数名が「難民の実態を勉強」するために来た.普通のおじさん、おばさん、リタイアした人たちが中心だが、若い人々も数名.このグループの活動は「お年寄りや移民などの全ての社会の弱者など必要としている人々に付き添う(病院、役所など).家に届く書類の分類などを手伝うこと」助成金なしでグループの自己資金だけで活動する純粋なボランティアグループだ.実情は・・であることを説明し、質疑応答などをするが「人種差別がどうして間違っているか、人間はみな平等である」というような基本的(世界人権宣言)なことは常識となっているので、改めて討論する必要はまずない.人権とは、道路で寝起きしている無職の人、刑務所で服役している人、外国人移民、難民、普通の人々全てに平等に適応される.人としての基本中の基本だ.

他の沢山の組織や団体との協同作業が、信じられないほど巧くいっているのは、どの関連組織や団体も同じ聖典「世界人権宣言」をベースにしているからだ.それを基に沢山の非営利団体や政府や行政が複雑に絡みあい協力体制(何重ものセーフティネット)が出来上がっている.絶対に日本のように「餓死者」を出すことはない.因に人口百万のブリュッセルには5千を超す非営利団体があり、その内数百は様々な「人権」を基にした団体だ.その他動物の権利保護を目的にした団体も100以上はあるだろう.動物の権利や保護に長年興味を持っている私でさえ口出しする必要などないほど、動物の権利が守られている・・・

ベルギーで難民申請をする人は昨年約24000人いた.その内申請が許可されたのはたったの15%だ.許可されると私たちの組織に直行してくるが.しかも、一回の申請、数ヶ月で許可される人は数少なく、その間政府が指定する難民申請者センター(国内の数十カ所)に滞在する.ほとんど出入り行動自由で3食とまともな部屋と僅かなお小遣いが渡される.申請却下になるとそのセンターを出なければいけない.何度も(新しい証拠が出てきた場合)申請できるが、そのまま自国に帰れるような人はまずいない.では残りの人々はどうするかというと、ベルギーか周辺の国々に不法滞在することになる.強制退去となるのは年間3千人前後だそうだ.難民申請却下の不法滞在者にはある程度、国は目を瞑るということをしている.ベルギーにはそのための興味深い法律がある.それは不法滞在者の人権を守るための法律でもある.ベルギーの学校(もちろん完全無料だが)は住民登録をしていない子供達の受け入れが義務付けられ、その学校の校長や職員はそのことを警察に通報してはいけない.フランスで問題になった「ジプシー」の子供達も受け入れることも含まれている.そして病院は緊急の病人やケガ人は住民登録や保険がなくとも差別なく、無料で治療を施す義務がある.同様に警察への通報は犯罪になる.これらは、世界人権宣言の基本的人権を守るという共通の聖典が基になっている.

日本では、法律や憲法や国際規約などよりも「義理人情や絆」を優先させる.世間体や空気を読むこと、建て前と本音、社会の書かれていない掟、曖昧が美徳、基本になる聖典が無いという状態で、どのように社会を変え進歩させられるのか、私には想像できない.

建て前(法律)では、労働時間は一日8時間、週に40時間という上限が定められているそうだ.果たしてそれを忠実に守っている企業はあるだろうか?
年間2000時間を可能な時間外労働としているのは、大企業の住友不動産だそうだ.法律で定められている労働時間の上限を2千時間オーバーさせても司法は罰することをしない.ベルギーの場合、週37時間が上限で時間外労働は認められていない.時間外労働を一年で15時間すると法律で厳しく罰せられる、労働者と雇用者両方ともだ.週に1時間の労働上限オーバーがあると、人事課から注意が来る.

だれも守らないことが前提の法律を作る国が他にあるだろうか、法律とは世界に対しての体裁なのか・・・このような官僚や政府が国際規約や条約を守るとは到底考えられない.

ほぼ単一民族だと自負する国家で「共有する聖典」がない.それぞれが支離滅裂な愚痴と批判ばかりしている.そういう実態を傍から見ていると、協力すればすごい変化が生まれそうなのに、反対にお互いの足の引っぱり合いをしている.多分日本とは巨大な村なのかもしれない.