「村雨橋の闘争」と聞いてピンとくる人々は、残念ながら沢山はいなくなってしまった.これは、当時の横浜市長が先頭に立って、市民、学生、役人達が国と身体を張って闘ったという事実だ.

Noro153+EN2011-09-06


1972年、時はベトナム戦争が終盤に近づいている頃、アメリカ軍は何トンもある戦車を相模原の基地から、横浜港のノースピアまで持って行き、そこで空母などに載せベトナムへ運ぼうと計画した.ノースピアの入り口には、村雨橋という橋が架かっている.

そして、沢山の日本人が「ベトナム戦争反対」の活動をしていた.当時の横浜市長飛鳥田一雄は元々弁護士でもあったので、道路交通法を使い阻止しようとした.重たい戦車が村雨橋を通るのは重量制限違反とした.しかし、国は直ぐさま国会で道路交通法の重量制限を改訂し、戦車でも村雨橋を通過できるとしてしまった.市長はあらゆる策を考慮したが、残るは実力行使しかないという結論に達した.そして、相模原や横浜などの市民団体や学生、横浜市の職員など沢山の人々が、連日村雨橋に座り込みをした.小競り合いで多数のケガ人を出し、数百人が逮捕された.この闘争は100日間に渡り続いた.

市長は「総司令官」として、地理的に横浜市役所より村雨橋に近い、横浜駅西口にある東急ホテルの一室を借りきり、総司令部としそこから指示を出したという.(市長自身は子供の頃小児まひにかかり、常に杖を持たないと歩けなかった.身体障害者だったので、国公立の大学にもいけなかった)

ここで注目すべきは、”市の職員”が交代で村雨橋へ行って、他の人々と一緒に機動隊ともみ合って闘ったという事実(当時の役人達の話だと村雨橋へ出向く事も職務だったという).そして、国が全面的にアメリカに協力したのに対し、横浜という地方自治体が堂々と市長を先頭に、正義のために"国と闘った"という歴史的事実があること.

勿論その後、飛鳥田市長が社会党委員長になるために市長を辞任した時には、飛鳥田時代の市役所幹部はすべて引きづり降ろされたという話を聞いている.そして、政府は沢山の国家公務員を横浜市へ派遣することで、政府との摩擦を回避する策をとった.政府から横浜市へのイジメもあるが、これは飛鳥田市長が当選した(全国初の革新市長)ころから始まっていたようだ.

現実には村雨橋の闘争の1972年には、私は欧州へ行ってしまっているが、60年代(それ以前から始まっていただろうけど)から70年代にかけて、人々はもっと個人で考え行動する自由があったような気がする.言論と表現の自由ももっとあったように感じる.マスメディアも今より"ジャーナリズムとは?"という哲学を真剣に考えていたのではないか?大学生は議論や討論に情熱をもやし、何が正しいことかを真剣に考えていたはずだ.

時代は、高度経済成長の負の象徴である、水俣病四日市病、イタイイタイ病などで、日本は一大公害大国として知れ渡り、経済成長のためなら住民の健康や命の犠牲をもいとわないという政府のやり方に、世界中から非難された.それに立ち向かった人々、学生運動浅間山荘事件、ハイジャック事件など、例を挙げたら切りがないが・・

多分、1972年頃から急に政府の弾圧は強くなったのではないかと思う.市民や学生が集会を開いたり政治活動をしないような仕掛け、教育は企業戦士養成所としての機能しかない.いつのまにか市民は人ではなく、消費者としての価値しか認められなくなった.私自身は時々横浜に戻ってくる度に、日本社会が遠のいていくような気がした.高校の時の友人達は、おカネの話とバーゲンの話しかしなくなった・・

追記:村雨橋の闘争、詳しくはこちらのサイトから