ベルギーは無政府状態が2010年6月の総選挙以来続いていた.541日の無政府期間は約8ヶ月ぐらい前にギネス世界記録として登録されて以来、ずっと記録更新を続けやっと記録に終止符が打たれそうだという.(今日にも発表されるはずだが・・)

あまりに長い無政府状態は、欧州委員会も我慢の限界が来て、2012年度予算設定の期限を決められ、それでも予算の設定(=組閣)ができなければ莫大な罰金を課すると発表した.そしてやっと先週全ての党が合意した.もたもたしていたのは大臣の数とオランダ語圏とフランス語圏の割合の話し合いが縺れていた.

長い間中央政府がなくても社会が巧く回っていた理由は:
中央政府以外のそれぞれの言語などで別れている4つの地方政府・行政が、中央政府があろうがなかろうがちゃんと機能しているからだ.(もちろん予算に関しては中央政府が主権をもっているが)

4つの地方政府とは、北の(蘭語)フレミッシュ政府、南の(仏語)ワロン政府、ドイツ語政府、そしてブリュッセル政府.

ベルギーの政治はとても複雑で、その歴史を考慮しないと理解できないので、簡単な歴史(私的偏見を含める)を説明すると:
国として独立したのは、1830年にオランダから独立.
それまでは、他の欧州と同様沢山の貴族たちが様々な町や地域を領土としていた.ブリュッセルがあるブラバント地方は、ブラバント伯爵の領土、北部はフランドル伯爵の領土、など等.
1790年には一時ベルギー合衆国が作られるがすぐに滅ぼされる.そして、フランス革命以降、ナポレオンが率いるフランス革命軍に支配される.ナポレオンはオランダやドイツ、イタリアの一部まで一時は支配する大帝国を築いたが、1815年ブリュッセル郊外のワーテルローでイギリス軍との交戦で敗北し、島送りなった.
オランダはナポレオンに苦戦していた間、アメリカ、アフリカなどの植民地を英国に委任していたが、英国がナポレオンに勝つとそれまでオランダ領であった南アフリカとニューヨークを含めた米東海岸地域と譲り受ける代わりに、現ベルギーをオランダ領にしてしまった.
オランダ領になってしまったベルギーはとても荒らされ、オランダ支配に国民の不満が募り、1830年ブリュッセルから反乱戦争が始まり、勝利した.仲介に入った英国の助言により、ドイツ貴族、レオポルド1世が初代国王に就任.ベルギーの大多数がカトリックでオランダのカルヴァンプロテスタントという宗教対立と当時繁栄していたフランス語圏の上流、中流階級が起こした革命であったこともベルギー革命の特徴だ.

数年後にオランダと交わした平和条約の中に、オランダが「ベルギーが永世中立を守る」という項目を条件にした.これはフランスとベルギーというカトリック国家が共謀してオランダを攻めてくることを警戒したからだ.そして、カトリックの国の王になったドイツ・プロてスタントの王は欧州大陸型フリーメーソンであったことも現在のベルギーが世界でも稀に見る「宗教色が薄い」社会となった理由だ(←ごく私的見解)

独立から第一次世界大戦ごろまで、ベルギーは英国に次いで「世界第2位の経済大国」だったことはあまり知られていない.1990年代に倒産してしまったベルギー国営航空は英国に次いで古い歴史を誇っていた.横浜など日本各地の市電の線路や車両もベルギー製であった.ワロン地方では石炭を始め鉄や銅、すずなどの炭坑が数々あったこと、元々はベルギー国王の私有財産であったアフリカの植民地などから原料が安く入ってきたので、空前の富と高い技術力で世界中(東欧、ロシア、米国、アフリカ)へ投資し現地工場などを持っていた.その富の中心はベルギー南部に集中し、北のフランダースやイタリア、ギリシャなどから、南部のワロン地方に多くの人々が出稼ぎや移民としてベルギーに来た.これから首相になるエリオ・ディ・ルポの両親は、戦後こうした炭鉱労働者として戦後ベルギーに来た移民だ.7人兄弟の末っ子で唯一のベルギー生まれ.父親はエリオが1歳の時に亡くなり、貧しいが為に7人の内3人は近くの養護施設で育ったという.

1960年のコンゴルワンダ、ブルンディのベルギー領植民地の独立、炭坑が次々に閉鎖したこと、そして日本からの工業製品、クルマやバイクなどが進出してきたことで、ベルギーの国力が急速に低下していった.ベルギー製の高級車やバイクがあったのはご存知だろうか?ミネルヴァはロースルロイスに匹敵する高級車だったし、武器製造業のFN(ファブリークナショナル)はバイクやクルマも製造していた.1968年にはフランスや他の欧州の国々と同様に学生運動が勃発.それまではベルギー中の大学の講義はフランス語のみで行なわれていたが、72〜73年頃にはフランドル地方の大学ではオランダ語が採用されるようになった.北のオランダ語圏にある古い都市、アントワープブルージュ、ゲントなどの社会の上層部の人々はすべて家でも学校でもフランス語を使い、大学もフランス語であった.私と同世代の人々(今回の首相になる人)にはオランダ語教育はわずかに小中でやる程度、それほど重用視されてはいなかった.同時に南部には資源がなくなり、それまで出稼ぎに来ていたフランドルの人々は北へ戻った.徐々に北のフランドルの人口が増え、新興企業や工業が盛んになり、南部は反対に工業の衰退に比例し、人口も減っていった.現在は58%がオランダ語フランドル地方、31%が南部のフランス語圏ワロン地方(ドイツ語圏は0.73%)11%が混血またはそれ以外の移民など人々.

その後93年にベルギーは「連邦立憲君主制国家」フランドル行政政府とワロン行政政府の連邦制になった.今回やっと政府ができることになったが、フランス語圏からの首相は40年ぶりという.ディルポ氏は上記に書いたようにイタリア移民の子供で、ベルギー社会党の党首だ.化学博士で米国で研究もしていたという.ディルポ氏は自称ホモでもある.彼の最大の弱点は、オランダ語が堪能ではないということだが、ベルギーの首相が大多数の人々が話す言葉が堪能ではないというのは問題が大きい.オランダ語でスピーチをしたり、記者会見もある程度こなすが、例えばオランダ語での政治討論会などには問題ありだ.それでも言語学者や専門家達は勉強次第で堪能になれるとしている.オランダ語圏の人々も大体寛容的だが「もっと勉強してほしい」という人々は多いが、中にはオランダ語圏の右翼には許されることではないらしい.

世界ではベルギーの言語戦争などと助長した報道がなされているが、現実の社会ではほとんど対立はない.というか政治的に作り上げられた感もある.数年前に当時の首相がテレビの生放送のインタビューで、その日がベルギー独立記念日というのも知らなく、ベルギー国歌を少し歌ってくださいという要請に隣の国(フランス)の国歌を歌ってしまった.批判はあるが、ほとんど「自分だって国歌なんて知らない、大体にしてベルギー人がオリンピックで金を獲ることもないから、だれも国歌を知らないなんて普通のこと」となんて寛容的な国民かと私だってびっくりするほどだ.第一国営テレビが「北のフランドル地方が独立宣言をした.国王は旧ベルギー領のコンゴへ亡命した.」とまじめに放送したら大混乱になったりと、何かこの国は面白いことばかり起る.70年代にベルギーに就職したが、その頃から「経済危機、政治危機」の言葉はベルギーのニュースで聞かない日はないぐらい、普通のことになってしまった.去年の今頃は「ベルギー独立以来の政治危機」みんな真剣にベルギーが無くなる日を想定し、北は独立、南部はフランスに併合されると覚悟をしていたのに・・ブリュッセルも北とは別に独立を考えていた.フランドル地方政府はブリュッセルまで組み込みフランドルの首都をブリュッセルにしたかったが、ブリュッセルがフランドルに付くということは考えられない.

さて、この無政府だった間(541日間)、だれに聞いてもこの間は何十年ぶりに社会が一番巧く行っていると言っていた.確かに何の問題もなく、普通にみんな生活していた.ということは中央政府は本当に必要なのか、という疑問が湧いてくる.

以下のビデオはベルギーの政治体制を説明するとても良いビデオ.以前これに日本語訳を付けたので、参照してください: