だれでも長い間信じていたことが、間違っているとは考えたくない.しかし、絶対普遍な思想は多分存在しないのでは?

Noro153+EN2011-10-17


昔ベルギーで、ベルギー人の元夫と知り合った頃、彼がいろいろな人たちに私を紹介するのに「日本人で仏教徒」と言っていた.彼と意気投合した最大の理由はお互いに「無神論者で反一神教」の立場であったからだ.それなのに他の人々には「仏教徒だ」と紹介していた理由は、沢山の人々が「宗教なし、または神を信じないで善悪の判断はつかない.だから無宗教無神論者は悪人である」と単純に信じていたからだ.現在はどこでも憲法や法律などで、無宗教無神論は認められているが、心の奥底でこう信じている人々は少なからずいると思う.現在のベルギーでは、神の存在を信じようが信じまいが社会生活では、全く関係ないので信仰や思想の自由が守られている.

無宗教とは言え、古代のギリシャの哲学や仏教もかなり評価していたのにショッキングなニュースを見た.あの曹洞宗大本山である永平寺原発に賛同し、「もんじゅやふげんの命名に関わった」こと.そして「原発に対する認識が足りなかった私たちの責任は重く、間違いだった。懺悔(さんげ)することから始めたい」と戒めている.懺悔(さんげ)のための集会にも入場料を取るということに呆れ果てるのは私だけ?日本は唯一の原爆被害国で放射能の怖さを痛いほど知っていたはず、その上数々の原発事故(311以前のマイナーとされる事故など)だって知っていたのではないのか?日々勉強し思考することが、僧侶の仕事ではなかったのか?もし、この集会に参加する方がいるのなら、ぜひどのような思想や理由で最初に原発賛同に関わったのか追求してほしい.しかも311の原発事故から7ヶ月もたってから「後悔している」なんて虫が良過ぎる.もし、理由がカネなら・・・う〜ん、これ以上想像したくない.

前回の続きで「もし日本教という宗教が存在するなら」その宗教の中に居る者には見えないが、外の者には見えることがある.多分キリスト教などの一神教を信じている人々が、絶対に確か、当たり前と思っている「神の存在」に匹敵することだと思うので、また沢山の批判をもらうことを覚悟で発言させてもらう.

真面目に働くこと、勤勉であること、会社のために働くことが、絶対的に正しいことなのだろうか、という疑問だ.なぜかというと、この倫理は日本だけのもののような気がするから.欧州では、生活のためにお金を稼ぐことと幸福になることはほとんど別だと考えられている.だから、法律で働く時間が制限(ベルギーでは週37時間)され、それ以上働こうとする人はいないし、雇用主は従業員をそれ以上働かせたら必ず罰せられる.日本でも勿論そのような法律があるだろうけど、周りの空気がそれを許さないのではないか?例えば5時で会社は終わりのはずだけど、その時間に終えるのは気が引けるとか何らかの見えない束縛があるようだ.自分の会社が家族や友人より優先することや何十時間もの残業をしたことが自慢になるのは日本だけだ.自分の一生をかけて尽くした会社が、もしかして世界で罪のない人々を殺している武器製造業に加担しているかもしれない.世界の原生林を伐採したり、後進国の環境破壊や環境汚染をしているかもしれない.貧しい人々や国々から搾取しているかもしれない.もしそうなら、会社に尽くすことは世の中にとっては悪いことをしていることになる.

日本だけではなく、世界中の企業が目に見えない何か悪いことをしているかもしれないので、尚更自分の判断や倫理観を持つことが重要になってくる.欧州には、独立したまともなジャーナリズムがあるのと法律を守らせる機関が機能し充実しているので、個人での善悪の判断もつき易い.神を信じようが信じまいが、どんな宗教を信じていようが、人類に共通する善が法律になり、法律が人々を守っている.なんか当たり前のことを書いているかもしれないが、日本にはその当たり前の「人類共通の善と悪」の認識が足りないような気がする.欧州は長い歴史の中から学んだ知恵が生かされ、現在でも修正が行なわれている.

私は、日本の中世や江戸時代に憧れを持っている.その一例は紙文化と折り紙.それが講じて日本に戻る直前には、ブリュッセルのど真ん中で「世界の手透きの紙」のお店を開いたぐらい紙工芸や折り紙が好きだ.一番古く、現存する折り紙の本は1797年に刊行された『千羽鶴折形』という本だ.一枚の正方形から切り離さずに切れ目を入れるだけで、何十もの鶴を折ったり、とても複雑な数十の鶴の折り方が記載されている.折り紙は他の伝統工芸とは違い、遊び以外に全く利用価値はない(つい最近までそう思われていた).日本の昔の人たちは、そのように利用価値がないものでも、真剣に追求していたことが1797年の折り紙の本から伺える.お金にもならないし、人の役にも立たない、ましてや名誉にも肩書きにもならない.私はこういうことが人間の素晴らしい文化だと思っている.折り紙は明治に入り外国へは伝わったが、国内では「役に立たない余計なこと」として忘れ去られようとしていた.大正時代に逆輸入の形で再び日本に定着していったが「子供の遊び」としてしか見られなかった.最近では世界の数学者が折り紙と数学を結びつけたことやNASAが折り紙を宇宙開発に利用したことで、脚光を浴びている.

もし当時、今のように何の役にも立たない遊びに興じている人は、怠け者として非難されることがあったなら、この素晴らしい折り紙の本は生まれていない.

その他にも「からくり人形」や百人一首紫式部小野小町などの文学、日本の素晴らしい文化は決して有名になりたい、勤勉だと思われたい、お金がほしいという人々から生まれたものではない.特に庶民の間で広まった(追求された)折り紙の文化は、庶民に余裕があったからだ.衣食住の心配をしなければいけない社会ではこのような高度な文化は育たなかったのではないか?

昭和20年までの日本では軍国主義帝国主義が絶対に正しいと信じられていた.それに異議を唱えた人々は非国民であり、処刑されたか監獄へ入れられた.8月の敗戦で、それまで信じられていたことは覆され、世界で信じられている民主主義を導入させられた.人々は慣れない「民主主義とは何か、自由とは何か」など世界のことを一生懸命学び、再び世界の仲間入りをする努力に余念がなかった.私が子供の頃はこういう人たちが学校の先生たちで、社会自体が新しい倫理を考えるという雰囲気があった.その結果、沢山の学生たちが政治や思想・哲学に没頭し、世界中の学生がそうであったように、日本でも学生運動が盛んになった.日本の若者たちは世界中の不正があるところへと遠征した.日本政府がそれを「日本の恥であり、経済成長の邪魔になる」として、徹底的に潰す切っ掛けは、多分「浅間山荘事件」当たりからではないだろうか?それまで大学は町中にあり、庶民の生活と密接に関係していたのを、見事に辺鄙な場所へ隔離してしまった.大学の3年生で就職を決め、4年の卒業と同時にどこかの会社へ入らないと社会の主流からは外されてしまうことなどもそのころからではないのか?若者たちに外を見る機会を与えない.外国へ勝手に長らく行った者は、戻ってもまともには相手にされない.日本語だけでほとんどすべてを勉強することができるので、外国語は蔑ろにされた.こうやって1970年ごろから日本人の隔離、第二の鎖国が始まり、同時にメディアや官僚たちのやりたい放題が始まった.何しろ文句を言う人々はいなくなってしまったのだから.「何も考えずに真面目に働くこと、勤勉であること、会社のために働くことが、絶対的に正しい」という倫理観も同様にこのころから植え付けられたのではないだろうか?

僧侶とは、沢山のことを学んでいる人々で、その時の権力やプロパガンダにはびくともしない倫理観の持ち主だという、私の持っていた僧侶の理想像とはかけ離れた永平寺の出来事にショックを受け、上記のようなことを考えてしまった.上に書いた古い折り紙の本は、ある僧侶が書き残したものだ.

追記:日本国憲法世界人権宣言、そして国連憲章が今のところ「人類共通の善」とは何かを考える土台になると私は思っている.